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法諱を「永杲」から「永皎」に改める。
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『稿本中御門天皇實録』「皇女永皎女王」七八二頁 天明元年十月二日「二品ニ敍セラル、」の〔按〕に、
本條所收ノ大聖寺文書ニ據リ、此已前ニ永杲ヲ永皎ニ改メシヲ知ルベシ、
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とある。
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天明元年(一七八一)十月二日、二品に敍される。
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『大聖寺文書』(『稿本中御門天皇實録』七八一〜七八二頁所引)
入道永皎女王
右可二品
勅。禪心不染宗親竝芬、進無上之覺路、攀眞杲之法雲、宜與榮奬式耀寵光、可依前件主者施行。
天明元年十月二日
二品行中務卿臣織仁親王宣
正四位下行中務大輔臣藤原朝臣宜康奉
正四位下行中務少輔臣藤原朝臣敬長行
奉
勅如右、牒到奉行。
天明元年十月二日
從三位行治部卿順件
從五位上守治部大輔通正
參議從三位行左大辨經逸
告入道二品永皎女王、奉
勅如右、符到奉行。
正四位下行治部少輔兼筑前守光祐
大録
少録
少録
天明元年十月二日
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『忠言卿記』天明元年十月二日辛未
永皎女王(大聖寺宮)・尊乘女王(光照院宮)等敍品宣下有之(消息)。上卿花山院中納言。奉行職事忠尹朝臣云々。
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『禁裏執次詰所日記』天明元年十月二日辛未
一、今日巳剋、大聖寺宮・光照院宮等二品宣下(消息)。
上卿花山院中納言 奉行職事中山頭中將
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文化五年(一八〇八)閏六月十三日、死去。
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『近代帝王系譜』(『稿本中御門天皇實録』七八五頁所引)、中御門院の子「大聖寺永杲(改永晃永皎)」
文化五年七月二日准三后。同月四日酉刻寂(實閏六月十三日)。七十七歳。號勝妙樂院天巖永皎。
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『仙洞女房日記』文化五年閏六月四日
はれ。御寺御所御むさ々々ニ付、くわん心寺御ふた物のうちまいる。
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『仙洞女房日記』文化五年閏六月七日
リ。御寺御所御むさ々々ニ付、はうきまいらせらるゝ。御うち羽・御くわしまいる。
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『仙洞女房日記』文化五年閏六月十日
リ。御寺御所へ外山前宰相御使ニまいらせられ、歸り參られ、御樣子申入られ候。
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『仙洞女房日記』文化五年閏六月十二日
リ。朝、御寺御所へふぢゐ殿參らるゝ。御樣子御よろしからず候故、夕がた、かでの小路まいらせらるゝ。御そばの御慰に御やしよくまいらせらるゝ。・・・・・ 御寺御所へ御はなまいらせらるゝ。御内々御用ゐのため、御人じんまいる。
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『仙洞女房日記』文化五年閏六月十三日
リ。御寺御所【大聖寺永皎】へ池かめ前宰相尾使に參らせらるゝ。御寺御所より上らふ參らるゝ。何かの御禮御内々仰入られ候事も御ざ候。御寺御所、御樣子御よろしからず候故、又々殿上人御使ニまいらせらるゝ。
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『諸寺院上申』大聖寺「前景愛當寺第廿三世特賜准三后勝妙樂院宮天巖永皎尼長老」
文化五年戊辰七月二日、特賜准三宮。
同月四日、 寂。壽七十七。廟塔在于歡喜寺。
實ハ閏六月十三日にして、其後准后宣下、
七月四日、喪ノ御弘メ也。
七月二日准后宣下、宣旨存在ス。
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文化五年(一八〇八)七月二日、准三后宣下。尼宮の准后宣下の初例。
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『大聖寺文書』(『稿本中御門天皇實録』七八五〜七八六頁所引)
勅。懿親之義必資睦婣、褒コ之政須加爵祿、遵明王之徽猷、依先哲之遺訓、越擇良辰以申新命、二品永皎女王、道コ碩茂慧解開朗、夙究玄文深察妙理、寔爲禪家正宗、况又皇家至親、今予一人、嘉其學コ、宜准三宮之崇班授千戸之邑、一率由舊章、主者施行。
文化五年七月二日
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『公明卿記』文化五年七月二日
天リ。今日大聖寺禪尼二品永皎女王、有准三宮宣旨(消息遷化。禪尼此宣旨古今之初例。不爲可)。此事全自仙院令執申給。上卿今出川大納言(尚季)。辨 。奉行職事頭中將隆純朝臣。封戸一千戸。無年官年爵之宣旨。
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『職寅記』文化五年七月二日丙寅
一、傳聞。今日(巳刻)大聖寺宮(二品天巖永皎。中御門院皇女。年七十七歳)准后宣下。賜封戸千戸。不賜年官年爵云々。
上卿 今出川大納言尚季卿
辨 坊城藏人左少辨俊明
奉行 鷲尾頭中將隆純朝臣
尼宮准后宣下之初例也。
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『仙洞女房日記』文化五年七月三日
御寺御所より昨日のせん下の御禮。御拜れう物の御禮、百々御所上らふにて仰入られ候。夕がた、御やうだい書出ル。御みまひ仰らるゝ。をし小路阿波權介御使にまいらせらるゝ。
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文化五年(一八〇八)七月三日、「勝妙樂院」の號を賜わる。
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『公明卿記』文化五年七月三日
天リ。大聖寺禪尼【永皎】特賜「勝妙樂院」之號。法苑經中句云々。
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文化五年(一八〇八)七月四日、「入寂」(發喪)。七十七歳。
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『公明卿記』文化五年七月四日
天リ。今夕酉剋、大聖寺禪尼永皎女王遷化。七十七歳。有廢朝(三ヶ日)。舊儀法體無薨奏、不及廢朝者、近例不然。於仙院三ヶ日御愼。爲姑之故也云々。又内々七ヶ日御愼之由。不知其理。
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『桂宮日次記』文化五年七月四日
從傳奏廣橋前大納言殿使(井上伴藏)觸書到來。注于左。・・・・・ 口上覺。大聖寺宮樣遷化ニ付、從今四日明後六日迄三ヶ日之間廢朝候。且仙洞樣三ヶ日御愼候。・・・・・
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『仙洞女房日記』文化五年七月四日
御寺御所へ石野前宰相御使ニまいらせられ候。二度め御やうたい書出ル。夜ニ成候て三度め御やうたい書出ル。ごう去のよし御とゞけ出ル。三ヶ日物の音とゞめられ、御つゝしミ覺しめしニて、七日の間御内々御つゝしミの事申出ル。三仲間へもはうき申わたさるゝ。
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『日次案』文化五年七月四日戊辰(『稿本後櫻町天皇實録』一七一四頁所引)
リ。晩來驟雨。就今日准后宮【大聖寺永皎】薨去、自今日至六日三箇日洞中御愼。
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『職厚記』文化五年七月四日戊辰
一、丑刻比、千種殿ヨリ大聖寺宮【永皎】遷化ニ付廢朝觸状到來。
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『稿本光格天皇實録』一三二〇頁 文化五年七月四日、「永皎女王、薨ズ、仍ツテ三箇日間、廢朝アラセラル、」
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文化五年(一八〇八)七月九日、歡喜寺に葬られる。
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『職厚記』文化五年七月九日癸酉
一、今晩、大聖寺准后宮御葬送也。予・妻等牧氏へ行向拜見。法中等之供奉有之。御道筋烏丸通、今出川寺町也。寺町條違橋ニ御廟所有之由也。
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『公明卿記』文化五年七月九日
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『詰所系圖』、中御門院の子「皇女」
大聖寺。天巖永果【杲】、改永皎。 母源内侍局。 享保十七年十一月廿一(二イ)日生。號倫(【振假名】トモ)宮。同十八年六月十九日爲大聖寺附弟。同十一月十六日髪置。同十九年十一月廿五日色直。元文元年十一月廿一日深曾木。同五年三月廿四日紐直。同九月二十六日入寺喝食(九歳)。寛保二年九月十九日得度(十一歳)。明和六年十二月二十五日稱御寺御所。天明元年十月二日敍二品。同五年九月六日赴于和州圓照寺。同□□□歸寺。同八年正月卅日洛大火、御室燒亡。暫移于雲林院村兼帶所。後移于相國寺中富春軒。其後還御室。寛政七年九月三日赴于和州圓照寺。同十七日歸寺。文化五年七月二日准三宮宣下。同四日薨(七十七歳)。號勝妙樂院。同九日葬于歡喜寺。
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類從本『皇胤紹運録』、中御門院の子「大聖寺皇女」
〔法名永果【杲】、後改永晃。母源内侍〕
享保十七年十一月廿二日誕生。稱倫宮。同十八年六月廿二日爲大聖寺附弟。元文五年九月廿六日入寺喝食(九歳)。寛保二年九月十九日得度(十一)。天明元年十月二日叙二品。文化五年七月二日准三后。四日薨(七十七)。九日葬于大歡喜寺。號勝妙樂院宮。
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