前頁 「 永 [永高]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[永皎]
 
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【僧】永皎女王
 天巖永皎

 もと天巖永杲
『御系譜』(清水正健『皇族考證』所引)「皇女(大聖寺。天巖永杲、改皎)」
母源内侍。享保十七年十一月廿二日生。號倫宮。十八年六月十九日爲大聖寺附弟。・・・・・ 寛保二年九月十九日得度(十一歳)。明和六年十二月廿五日稱御寺御所。・・・・・ 文化五年七月四日薨(七十七歳)。號勝妙樂院。・・・・・
類從本『本朝皇胤紹運録』は「永晃」と作す。
『詰所系圖』、類從本『本朝皇胤紹運録』は初名を「永果」と作し、『八槐記』明和七年九月廿二日乙丑條に「永果女王」と見えるが、「永杲」とあるべきものであろう。
稿本中御門天皇實録』「皇女永皎女王」七八〇頁 寛保二年九月十九日「得度ス、法名ヲ永杲ト號ス、」の〔按〕に、
皇女永皎女王ノ法名ニ就キテ通兄公記已下諸書ニ永果トナシ、杲果ノ正非遽ニ定メ難シト雖モ、今姑ク執次詰所本御系譜ノ記載ニ從ヒ按ヲ附シテ後考ニ俟ツ、
とある。
 
 大聖寺宮
『尼門跡の言語生活の調査研究』所收『御由緒書 大聖寺門跡』によると大聖寺第二十世。
谷口陽子『大聖寺控』によると大聖寺第二十三世。
第二十三世 勝妙楽院しようみようらくいん准三后二品じゆさんぐうにほん天巖永皎尼大禅師 中御門院の皇女
 
 圓照寺兼帶
 准三宮
 
【稱號】
 「倫宮」 とものみや
執次詰所本『御系譜』、中御門院の子「皇女 (大聖寺天巌永杲永皎)」
母源内侍局。
享保十七年十一月廿二日生。號トモ宮。
 
【法號】
 「勝妙樂院
 
【出自】
 中御門院の七女。
 
【生母】
 源朝臣夏子
「源内侍」
「妙色院」
源朝臣通夏[久世]の女子。
贈從三位
『K御所譜』大聖寺「永イ晃(【傍】元永果【杲】)入道女王」
中御門第十一【ママ】皇女。
母源内侍久世大納言通夏卿女。
享保十七年十一月廿二日、誕生(倫宮)。
『諸寺院上申』大聖寺「前景愛當寺第廿三世特賜准三后勝妙樂院宮天巖永皎尼長老」
百十五代中御門院天皇第七之皇女。
母儀源内侍局。法號妙色院。久世前大納言通夏卿女。
享保十七年壬子十一月二十二日、誕生。
 
【經歴】
享保十七年(一七三二)十一月二十一日/二十二日生。
『桂宮日記』享保十七年十一月廿二日乙巳
源内侍局、昨夜姫君誕生云々。仍禁中以奉書被賀之。御産屋亦同(御口上御使藤光方)。
『閑院宮日次記』享保十七年十一月廿二日
今朝姫宮御誕生。・・・・・ 源内侍殿。久世中納言殿御悦被仰入候也。
『御湯殿上日記』享保十七年十一月廿二日
げん内侍殿、姫宮ノ御方御たん生成。
倫宮
享保十七年(一七三二)十一月二十八日、御七夜。「倫宮(とものみや)」と稱す。
『御湯殿上日記』享保十七年十一月廿八日
姫宮ノ御方、御七夜ニて、御名「ともの宮」と仰まいらせられ候。御しうぎ御守刀代黄金十兩、御うふぎ代白銀百兩、御まな一折まいる。大御ち御使ニまいらるゝ。
享保十八年(一七三三)六月十九日、大聖寺宮の附弟となる。
『御湯殿上日記』享保十八年六月十九日
大聖寺宮へ倫の宮ノ御方御附弟の事仰出され候。
『御湯殿上日記』享保十八年六月廿三日
大聖寺宮倫宮ノ御かた御ふていの御ひろめ、こわく御一ふた、小奉書二束、しいたけ一箱、こんぶ一箱まいる。
『普門山年譜』享保十八年癸丑六月十九日
兩傳奏中山殿・三條西殿勅使として烏丸御寺御參被成、倫宮の御方を大聖寺御附弟に被爲進候由の御使也。則御客殿ニ而御對面在之。
『桂宮日記』享保十八年六月廿一日庚午
禁中以奉書被賀倫宮大聖寺宮御附弟事(御使伴和驕j。倫宮御方久世前中納言亦遣使(同上)被賀同儀。
『御由緒書 大聖寺門跡』(『尼門跡の言語生活の調査研究』所收
当寺第二十世勝妙楽院天巌永皎宮
中御門院天皇ノ皇女。母儀ハ源内侍局、久世家ノ出。享保十七年十一月二十二日降誕。同十八年六月二十二日当寺ヘ相続ノ勅約アリ。元文五年九月十六日九歳ニシテ入室。寛保二年九月十九日十一歳ニシテ得度。延宝【享】三年十二月二十四日紫衣拝領。天明元年十月二日二品宣下。文化五年七月二日特ニ准三后ヲ賜フ。同月四日薨ス。寿七十七。
元文元年(一七三六)十一月二十一日、深曾木。
『院中番衆所日記』元文元年十一月廿一日庚戌
今日、倫宮(大聖寺宮御附弟)於別當典侍局有御深曾幾之事。御鬢親右大臣(兼香公)也。
元文五年(一七四〇)九月二十六日、大聖寺に入室し、喝食となる。
『通兄公記』元文五年八月廿八日丙寅
巳斜參内。來月廿二日龜宮(先帝【中御門院】皇女)令入光照院室給、同日可有御得度。同月廿六日倫宮(同【中御門院】皇女)可令入大聖寺室給(云々)。・・・・・
『通兄公記』元文五年九月廿六日甲午
今日、倫宮(先帝【中御門院】皇女。母贈從三位源夏子。通夏卿【久世】女)令入大聖寺給(自一品宮【直仁親王】令出立給))。被過今出川之時、密々見物。・・・・・
未時許、參大聖寺宮。々【永應】・倫宮相共令出逢給。此後有饗應(但禁酌酒)。申時許歸家。
『八槐記』元文五年九月廿六日甲午
今日、中御門院皇女(倫宮)令入大聖寺殿給。自閑院宮【直仁親王】有御出立云々。
『ョ言卿記』元文五年九月廿六日甲午
倫宮、大聖寺入寺(自一品宮【直仁親王】亭令出立給)。扈從公卿、C水谷前大納言、中御門中納言(宗)、風早宰相、宮内卿。前駈殿上人通積朝臣(【傍注】帶劒)、爲成朝臣(【傍注】童持劒)、兼久朝臣(【傍】帶劒)、榮房(【傍注】童持劒)、榮通。
『大聖寺之記』「天巖永晃」
元文五庚申年九月廿六日、御入寺。
即日、喝食。御年九歳。
永杲
寛保二年(一七四二)九月十九日得度。法名「永杲」。十一歳。
『御湯殿上日記』寛保二年九月十五日
十九日、御かつじきの宮【大聖寺。倫宮】御とくどニ付、ちやく座、C水谷前中【大】納言、Cかんじ中納言、松木中納言、梅ぞの前宰相、刑部卿五人へ仰出さるゝ。
『ョ言卿記』寛保二年九月十九日乙亥
大聖寺喝食宮【倫宮】得度。着座、C水谷前大納言、C閑寺中納言、中御門中納言、梅園前宰相、刑部卿。
『通兄公記』寛保二年九月十九日乙亥
詣大聖寺宮。今日喝食宮【倫宮】(先帝皇女)令得度給也。着座公卿、C水谷前大納言、C閑寺中納言、中御門中納言、梅園前宰相、刑部卿(各自被催也)。戒師當住宮也。新宮法名「永果【永杲】」云々。未斜歸。
『普門山年譜』寛保二壬戌年九月廿一日
大御所【永應】御住職御讓リ、新宮の御方を大聖寺宮ト申奉り大御所を前住宮ト申奉ル。
即日、喝食。御年九歳。
『大聖寺之記』「天巖永晃」
寛保二壬戌年九月十九日、御得度。御年十一歳。翌日御住持職。
即日、喝食。御年九歳。
延享三年(一七四六)十二月二十四日、紫衣を拝領する。景愛寺住持。
『御湯殿上日記』延享三年十二月廿四日
大しやうじの宮、紫衣勅許仰出さるゝ。大じやうじの宮より紫衣勅許の御禮ニ、御たる代金子三百疋、杉原十でう、こんぶ一箱、わらび一箱まいる。
明和六年(一七六九)十二月二十五日、御所號を「御寺御所」と稱すべき旨を仰せ出される。
『禁裏執次詰所日記』明和六年十二月廿五日癸酉
一、大聖寺宮御事、御寺御所稱候旨、右之段被仰出、御附衆へ申達ス。番頭仕丁頭C所御門へ申達ス。
明和七年(一七七〇)九月二十二日、圓照寺を兼帶。
『八槐記』明和七年九月廿二日乙丑
和州山村圓照寺、雖無住、可有相續。依無女王、大聖寺宮永果【永杲】女王可有兼帶、有天氣。被申領承。
永皎
法諱を「永杲」から「永皎」に改める。
稿本中御門天皇實録』「皇女永皎女王」七八二頁 天明元年十月二日「二品ニ敍セラル、」の〔按〕に、
本條所收ノ大聖寺文書ニ據リ、此已前ニ永杲ヲ永皎ニ改メシヲ知ルベシ、
とある。
天明元年(一七八一)十月二日、二品に敍される。
『大聖寺文書』(稿本中御門天皇實録』七八一〜七八二頁所引
  入道永皎女王
    右可二品
勅。禪心不染宗親竝芬、進無上之覺路、攀眞杲之法雲、宜與榮奬式耀寵光、可依前件主者施行。
 天明元年十月二日
                        二品行中務卿臣織仁親王
                        正四位下行中務大輔臣藤原朝臣宜康
                        正四位下行中務少輔臣藤原朝臣敬長

勅如右、牒到奉行。
  天明元年十月二日
從三位行治部卿順件
從五位上守治部大輔通正
參議從三位行左大辨經逸
告入道二品永皎女王、奉
勅如右、符到奉行。
正四位下行治部少輔兼筑前守光祐
             大録
             少録
             少録
  天明元年十月二日
『忠言卿記』天明元年十月二日辛未
永皎女王(大聖寺宮)・尊乘女王(光照院宮)等敍品宣下有之(消息)。上卿花山院中納言。奉行職事忠尹朝臣云々。
『禁裏執次詰所日記』天明元年十月二日辛未
一、今日巳剋、大聖寺宮・光照院宮等二品宣下(消息)。
上卿花山院中納言 奉行職事中山頭中將
文化五年(一八〇八)閏六月十三日、死去。
『近代帝王系譜』(稿本中御門天皇實録』七八五頁所引)、中御門院の子「大聖寺永杲(改永晃永皎)」
文化五年七月二日准三后。同月四日酉刻寂(實閏六月十三日)。七十七歳。號勝妙樂院天巖永皎。
『仙洞女房日記』文化五年閏六月四日
はれ。御寺御所御むさ々々ニ付、くわん心寺御ふた物のうちまいる。
『仙洞女房日記』文化五年閏六月七日
リ。御寺御所御むさ々々ニ付、はうきまいらせらるゝ。御うち羽・御くわしまいる。
『仙洞女房日記』文化五年閏六月十日
リ。御寺御所へ外山前宰相御使ニまいらせられ、歸り參られ、御樣子申入られ候。
『仙洞女房日記』文化五年閏六月十二日
リ。朝、御寺御所へふぢゐ殿參らるゝ。御樣子御よろしからず候故、夕がた、かでの小路まいらせらるゝ。御そばの御慰に御やしよくまいらせらるゝ。・・・・・ 御寺御所へ御はなまいらせらるゝ。御内々御用ゐのため、御人じんまいる。
『仙洞女房日記』文化五年閏六月十三日
リ。御寺御所【大聖寺永皎】へ池かめ前宰相尾使に參らせらるゝ。御寺御所より上らふ參らるゝ。何かの御禮御内々仰入られ候事も御ざ候。御寺御所、御樣子御よろしからず候故、又々殿上人御使ニまいらせらるゝ。
『諸寺院上申』大聖寺「前景愛當寺第廿三世特賜准三后勝妙樂院宮天巖永皎尼長老」
文化五年戊辰七月二日、特賜准三宮。
同月四日、 寂。壽七十七。廟塔在于歡喜寺。
  實ハ閏六月十三日にして、其後准后宣下、
  七月四日、喪ノ御弘メ也。
  七月二日准后宣下、宣旨存在ス。
文化五年(一八〇八)七月二日、准三后宣下。尼宮の准后宣下の初例。
『大聖寺文書』(稿本中御門天皇實録』七八五〜七八六頁所引
勅。懿親之義必資睦婣、褒コ之政須加爵祿、遵明王之徽猷、依先哲之遺訓、越擇良辰以申新命、二品永皎女王、道コ碩茂慧解開朗、夙究玄文深察妙理、寔爲禪家正宗、况又皇家至親、今予一人、嘉其學コ、宜准三宮之崇班授千戸之邑、一率由舊章、主者施行。
  文化五年七月二日
『公明卿記』文化五年七月二日
天リ。今日大聖寺禪尼二品永皎女王、有准三宮宣旨(消息遷化。禪尼此宣旨古今之初例。不爲可)。此事全自仙院令執申給。上卿今出川大納言(尚季)。辨    。奉行職事頭中將隆純朝臣。封戸一千戸。無年官年爵之宣旨。
『職寅記』文化五年七月二日丙寅
一、傳聞。今日(巳刻)大聖寺宮(二品天巖永皎。中御門院皇女。年七十七歳)准后宣下。賜封戸千戸。不賜年官年爵云々。
  上卿 今出川大納言尚季卿
  辨  坊城藏人左少辨俊明
  奉行 鷲尾頭中將隆純朝臣
尼宮准后宣下之初例也。
『仙洞女房日記』文化五年七月三日
御寺御所より昨日のせん下の御禮。御拜れう物の御禮、百々御所上らふにて仰入られ候。夕がた、御やうだい書出ル。御みまひ仰らるゝ。をし小路阿波權介御使にまいらせらるゝ。
文化五年(一八〇八)七月三日、「勝妙樂院」の號を賜わる。
『公明卿記』文化五年七月三日
天リ。大聖寺禪尼【永皎】特賜「勝妙樂院」之號。法苑經中句云々。
文化五年(一八〇八)七月四日、「入寂」(發喪)。七十七歳。
『公明卿記』文化五年七月四日
天リ。今夕酉剋、大聖寺禪尼永皎女王遷化。七十七歳。有廢朝(三ヶ日)。舊儀法體無薨奏、不及廢朝者、近例不然。於仙院三ヶ日御愼。爲姑之故也云々。又内々七ヶ日御愼之由。不知其理。
『桂宮日次記』文化五年七月四日
從傳奏廣橋前大納言殿使(井上伴藏)觸書到來。注于左。・・・・・ 口上覺。大聖寺宮樣遷化ニ付、從今四日明後六日迄三ヶ日之間廢朝候。且仙洞樣三ヶ日御愼候。・・・・・
『仙洞女房日記』文化五年七月四日
御寺御所へ石野前宰相御使ニまいらせられ候。二度め御やうたい書出ル。夜ニ成候て三度め御やうたい書出ル。ごう去のよし御とゞけ出ル。三ヶ日物の音とゞめられ、御つゝしミ覺しめしニて、七日の間御内々御つゝしミの事申出ル。三仲間へもはうき申わたさるゝ。
『日次案』文化五年七月四日戊辰(『稿本後櫻町天皇實録』一七一四頁所引)
リ。晩來驟雨。就今日准后宮【大聖寺永皎】薨去、自今日至六日三箇日洞中御愼。
『職厚記』文化五年七月四日戊辰
一、丑刻比、千種殿ヨリ大聖寺宮【永皎】遷化ニ付廢朝觸状到來。
稿本光格天皇實録』一三二〇頁 文化五年七月四日、「永皎女王、薨ズ、仍ツテ三箇日間、廢朝アラセラル、」
文化五年(一八〇八)七月九日、歡喜寺に葬られる。
『職厚記』文化五年七月九日癸酉
一、今晩、大聖寺准后宮御葬送也。予・妻等牧氏へ行向拜見。法中等之供奉有之。御道筋烏丸通、今出川寺町也。寺町條違スヂカヘ橋ニ御廟所有之由也。
『公明卿記』文化五年七月九日
天リ。今夜、大聖寺准后禪尼[葬]于觀喜寺。
『詰所系圖』、中御門院の子「皇女」
大聖寺。天巖永果【杲】、改永皎。  母源内侍局。  享保十七年十一月廿一(二)日生。號倫(【振假名】トモ)宮。同十八年六月十九日爲大聖寺附弟。同十一月十六日髪置。同十九年十一月廿五日色直。元文元年十一月廿一日深曾木。同五年三月廿四日紐直。同九月二十六日入寺喝食(九歳)。寛保二年九月十九日得度(十一歳)。明和六年十二月二十五日稱御寺御所。天明元年十月二日敍二品。同五年九月六日赴于和州圓照寺。同□□□歸寺。同八年正月卅日洛大火、御室燒亡。暫移于雲林院村兼帶所。後移于相國寺中富春軒。其後還御室。寛政七年九月三日赴于和州圓照寺。同十七日歸寺。文化五年七月二日准三宮宣下。同四日薨(七十七歳)。號勝妙樂院。同九日葬于歡喜寺。
類從本『皇胤紹運録』、中御門院の子「大聖寺皇女」
〔法名永果【杲】、後改永晃。母源内侍〕
享保十七年十一月廿二日誕生。稱倫宮。同十八年六月廿二日爲大聖寺附弟。元文五年九月廿六日入寺喝食(九歳)。寛保二年九月十九日得度(十一)。天明元年十月二日叙二品。文化五年七月二日准三后。四日薨(七十七)。九日葬于大歡喜寺。號勝妙樂院宮。
 
【墓所】
 歡喜寺内大聖寺宮墓地
『陵墓要覽』(昭和九年版
皇女 永皎女王墓  京都府京都市上京區鶴山町 歡喜寺内大聖寺宮墓地
   五輪塔 勝妙樂院宮准三宮二品天巖尼大禪師 永邵女王墓以下九墓同域
 
【文獻等】
稿本中御門天皇實録』 七七四〜七八七頁 「皇女永皎女王」
清水正健『皇族考證』第伍巻、三六九〜三七〇頁
『皇室制度史料 皇族 二』、四一頁
井野口有一・堀井令以知・中井和子『尼門跡の言語生活の調査研究』(東京、風間書房、昭和四十年(一九六五)八月)、二六頁
谷口陽子『大聖寺控 ── 京の尼門跡の聴き書など ──』(私家版。東京、昭和六十一年(一九八六)九月二版)、三一頁
服部早苗/西野悠紀子/伴瀬明美/菅原正子/久保貴子『歴史のなかの皇女たち』(東京、小学館、二〇〇二年十二月)「尼門跡表」大聖寺、二七一頁
服部早苗/西野悠紀子/伴瀬明美/菅原正子/久保貴子『歴史のなかの皇女たち』(東京、小学館、二〇〇二年十二月)「皇女一覧表」、二五四頁


 
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更新日時: 2008.05.04.
公開日時: 2004.02.21.


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