前頁 「 永 [永安]
『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[永應]

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【僧】永應
 大寂永應
物外永應
 大聖寺宮
 圓照寺では大寂文應
『尼門跡の言語生活の調査研究』所收『御由緒書 大聖寺寺門跡』によると大聖寺第十九世。
谷口陽子『大聖寺控』によると大聖寺第二十二世。
第二十二世 清浄院【ママ】心院(【振假名】しようじようしんにん)宮大寂永広【ママ】尼大禅師 霊元院の皇女
 
【稱號】
 「乙宮」 おつ(をつ)のみや
 
【法號】
 「C淨心院宮
【出自】
 靈元院の女子(第十皇女)。
【生母】
 「藤式部局」
 藤原朝臣定淳[今城]の女子。
 ※ 尊賞親王を見よ。
【經歴】
元祿十五年(一七〇二)十一月二十日、誕生。
『院中番衆所日記』元祿十五年十一月廿日
リ。今日姫宮御誕生(藤式部御局御腹)。
『仙洞女房日記』元祿十五年十一月廿日
はるゝ。藤しきぶ殿ひめ宮の御方御たん生のよし申入らるゝ。
『季連宿禰記』元祿十五年十一月廿二日
傳聞。一昨日廿日、藤式部局(仙洞掌侍。今城中納言定經卿娣姫宮降誕。
『桂宮日記』元祿十五年十一月廿一日戊辰
午刻、於當式部【藤式部】於姫宮御平産、以之遣使(侍)當式部許。於姫宮令問御安否給。
『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女(圓照寺文應 後大聖寺)」
元祿十五年十一月廿六日生。號乙(【振假名】オツ)宮。
稿本靈元天皇實録』一二四七〜一二四八頁〔按〕に、「皇女永應女王ノ誕生日次ニ就キ、執次詰所本御系譜、村上本本朝皇胤紹運録等ニ二十六日トセルハ誤リナルベシ」とある。
元祿十五年(一七〇二)十一月二十六日、七夜祝。
『仙洞女房日記』元祿十五年十一月廿六日
はるゝ、雨ふる。ひめ宮の御方御七夜にて、ひめ宮の御方へ御うぶめし代白かね百兩、御まもり刀代わうごん十兩、一か二しゆまいる。
『御湯殿上日記』元祿十五年十一月廿六日
はるゝ、藤しきぶ殿ひめ宮の御かた御七夜にて、御しうぎに白かね五十兩、御まなまいる。
『桂宮日記』元祿十五年十一月廿六日癸酉
リ。今日姫宮御方御七夜也。仍爲御祝儀令進鯛一折於姫宮御方給。藤式部局賜于鯛一筥。梅小路宰相同。右京大夫來而謝昨日之賜物、從姫宮御方鱧一折。自藤式部局于鯛一筥被進之。依御七夜也。
「乙宮」
元祿十六年(一七〇三)二月二十一日、「乙宮」と稱す。
『仙洞女房日記』元祿十六年二月廿一日
はるゝ。くもる。夜に入雨少降。御名つきまいらせられ、をつの宮の御かたとつきまいらせらるゝ。おつの宮の御かたより御まなまいる。こなたよりも御まなまいる。
元祿十六年(一七〇三)十二月九日、髪置。
『御湯殿上日記』元祿十六年十二月九日
はるゝ。おつの宮の御かたより御くしおきにて、御かちん一ふた、御てうしひさげ、御まなまいる。
『仙洞女房日記』元祿十六年十二月九日
はるゝ。くもる。おつの宮の御かた御くしおきにて、藤式部殿よりかちん二か三しゆしん上。御つぼねにて御いわゐ有。御さかづきの間にて、御さかづき二こんまいる。藤式部殿へ御こぶあわ、御さかづきたぶ。
寶永三年(一七〇六)十二月二十二日、御深曾木。
『院中番衆所日記』寶永三年十二月廿二日
陰リ、間々雨雪混下。乙宮御深曾幾、依之内大臣參入被召御内儀。
『仙洞女房日記』寶永三年十二月廿二日
はるゝ。少雪ふる。おつのみやノ御かた御ふかそぎ御きうそくしやうにてあそばさるゝ。御びんおや二條大府殿。御ばいぜんかん中納言殿。御ふかそぎののち御しやうへなる。つねの御しやうにて御こぶあわにて一こんまいる。
「乙宮」[圓照寺宮]
寶永三年(一七〇六)十二月二十七日、圓照寺を相續する。
『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女 圓照寺文應、後大聖寺」
寶永三年十二月廿七日、圓照寺相續。
『普門山年譜』寶永三年丙戌十二月廿一日
當寺御山主ニ寛文上皇の皇女乙宮御方御定リ。
當寺第三世 御在住萬々歳。
乙宮
寛文上皇の皇女。元祿十五年壬午十一月廿日ニ御誕生。御母今城故中納言定淳卿の女藤式部局(御乳人宗春尼、俗名形【刑】部卿)。
稿本靈元天皇實録』一二五〇頁〔按〕に、「本條ノ日次、普門山年譜、椒庭譜料等ニハ二十一日ト爲セドモ、今姑ク執次詰所本御系譜ニ從ヒ、按ヲ附シテ後考ニ俟ツ」とある。
寳永六年(一七〇九)五月十一日、圓照寺に入寺。八歳。
『院中番衆所日記』寶永六年五月十一日
乙宮御方御入室于南都圓照寺御本坊(御内儀沙汰)。被進御祝儀。
黄金   二千疋        昆布   一筥
御内儀御沙汰也。
寳永七年(一七一〇)三月二十八日、紐直。
『仙洞女房日記』寶永七年三月廿五日
おつの宮ノ御方御ひもなをしに付、御ふく一重、御さげ帶、こんぶ一はこまいる。
『仙洞女房日記』寶永七年三月廿八日
おつの宮の御かた御ひもなをしにて、御かちん一ふたまいる。
文應 [圓照寺宮]
寳永七年(一七一〇)五月十八日、得度(戒師は文智)。法諱「文應」。九歳。
『仙洞女房日記』寶永七年五月十八日
はるゝ。くもる。ゑんせうじの宮御とく度にて、金子千疋、こんぶ一はこ、こなたより御しうぎにまいる。
『仙洞女房日記』寶永七年閏八月十九日
はるゝ。ゑんしやう寺の宮御とくどよりはじめてなる。・・・・・
『續紹運録』靈元院の子「皇女 大聖寺(大寂文應。先入圓照寺)」
同【寶永】七、五、十八、得度(九歳。戒師深如海院)。
享保七年(一七二二)十一月十九日、受戒。
『普門山年譜』享保七年壬寅十一月十九日
御受戒(御戒師泰洲律師)。
文應 [大聖寺宮](圓照寺兼帶)
享保十年(一七二五)九月十五日、大聖寺を相續する(圓照寺を兼帶)。二十四歳。
『基長卿記』享保十年八月廿五日庚寅
一、參院。兩傳奏參入。予出逢。大聖寺殿御兼帶之事、別紙之通申聞候。
 大聖寺殿無住ニ付而圓照寺宮御兼帶候樣被成度法皇思召之由及言上候處、法皇可爲思召次第旨被仰出候由、關東より申來候事。
『仙洞女房日記』享保十年九月十五日
はるゝ。ゑんせうじの宮大しやうじへ御そうぞく、ゑんせうじ御けんたいの事、おもて向にて院でんさうへ仰出され申わたさるゝ。ゑんせうじの宮なる。御たいめん。
『後中内記』享保十年九月十五日
リ。圓照寺、此間山村御出京、今日御院參。大聖寺宮御兼帶之事被仰定。御請被仰。上南良奧主馬卷數并一曲持參祝着了。
永應 [大聖寺宮](圓照寺兼帶)
享保十年(一七二五)十一月十五日、大聖寺に入寺し、「永應」と法諱を改める(圓照寺では「文應」のまま)。
『後中内記』享保十年十一月四日
リ。梅園、今城中將等依召院參。自十日至廿日比、圓成寺【圓照寺】宮大聖寺宮へ可有御入寺、諸事御肝煎可申上候旨也。梅園入來。右之通被申聞。其上從門院有御言傳之事。
『仙洞女房日記』享保十年十一月九日
はるゝ。ゑんせうじの宮ノ御方大しやう寺の宮へ御入寺ニ付、上京。
『基長卿記』享保十年十一月十一日乙巳
一、參院。坊城同被參召御前被仰出。圓照寺宮一昨日御出洛候。依是大聖寺御入寺之日時十五日巳刻最吉之由土御門勘進候。仍御治定候。・・・・・
『後中内記』享保十年十一月十五日
リ。巳刻、圓成寺【圓照寺】宮【文應】可令入寺于大聖寺宮給。・・・・・
『綱平公記』享保十年十一月十五日
一、圓正寺【圓照寺】宮今日大聖寺殿入寺。尤此間一乘院里坊迄御出被成。夫より入寺云々。・・・・・
『基長卿記』享保十年十一月十五日己酉
リ。昆布一箱進于大聖寺宮。依今日御入寺也。・・・・・
『仙洞女房日記』享保十年十一月十五日
はるゝ。大しやう寺宮御入寺ニ付、金子五百疋、こんぶ一はこ、氷こんにやく一はこまいる。此御所よりも金子二千疋、二しゆまいる。
『御湯殿上日記』享保十年十一月十五日
はるゝ。大しやう寺の宮御入寺ニて、御しうぎ御折五合代五百疋、昆布一はこ、氷蒟蒻一はこまいる。
『仙洞女房日記』享保十年十一月廿五日
はるゝ。大しやう寺の宮御入寺の御禮になる。
『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女 圓照寺文應、後大聖寺」
享保十年九月十五日、大聖寺相續。同十一月十五日入寺、圓照寺兼帶、改永應。
『普門山年譜』享保十年乙巳
文應公主二十四歳。
大聖寺宮と稱し奉る時は御號・御諱物外永應と申奉る。
『歴史のなかの皇女たち』「尼門跡表」大聖寺は入寺年月日を享保十年九月十五日と作す。
享保十年(一七二五)十二月二十四日、紫衣を拜領し、景愛寺住持職に補される。
『御湯殿上日記』享保十年十二月廿四日
はるゝ。大せうじの宮紫衣御ねがひにて、御返事にさつそく勅許成。
『大聖寺之記』享保十年十二月廿四日
御改衣、勅賜紫衣、補景愛寺住持職。
『御由緒書 大聖寺寺門跡』(『尼門跡の言語生活の調査研究』所收
当寺第十九世清浄心院大寂永応宮
霊元院天皇ノ皇女。母儀ハ藤式部局、今城家ノ出。元祿十五年十一月二十日降誕。宝永六年五月十一日八歳ニシテ和州山村円照寺ヘ入室。同七年五月十八日得度。享保十年十一月十五日当寺ヘ転住。年二十五。而シテ円照寺ヲ兼管ス。同年十二月十五日【ママ】紫衣拝領ス。宝暦四年五月二十四【ママ】日薨ス。寿五十三。
寛保二年(一七四二)九月十九日、永杲(のち永皎)の得度の戒師を勤む。
『通兄公記』寛保二年九月十九日乙亥
巳終、葉室前大納言【頼胤】被來。須臾同伴彼卿詣大聖寺宮。今日喝食宮(先帝【中御門院】皇女)令得度給也。着座公卿清水谷前大納言【雅季】・清閑寺中納言【秀定】・中御門中納言【松木宗長】・梅園前宰相【久季】・刑部卿【萩原兼武】(各自内被催也)。戒師當住宮【永應】也。新宮法名永果【永杲云々。未斜歸。
永應 [大聖寺前住宮](圓照寺兼帶)
寛保二年(一七四二)九月二十一日、大聖寺住職を永杲(のち永皎)に讓り、「前住宮」と稱される。四十一歳。
『通兄公記』寛保二年九月廿一日丁丑
大聖寺宮【永應】、被讓住職于新宮【永杲】、稱前住宮云々
『普門山年譜』寛保二壬戌年九月廿一日
大御所【永應】御住職御讓り、新宮の御方【永杲】を「大聖寺宮」ト申奉ル。大御所を「前住宮」ト申奉ル。
寛延元年(一七四八)九月二十六日、本光院に移り、隱居。四十七歳。
『普門山年譜』寛延元戊辰年九月廿六日
大聖寺前住宮【永應】ニ而【ママ】、本光院へ御隱居。今日御引移被遊候也。
寳暦四年(一七五四)五月二十二日、本光院において、癰により死亡。
『桂宮日記』寶暦四年四月九日戊午
大聖寺前住宮【永應】(御腫物御容體被問之。御同偏之由也)
『普門山年譜』寶暦四甲戌年夏四月下旬
公主【永應】癰御發背。
『桂宮日記』寶暦四年五月廿一日庚子
遣使(源盛英)本光院(被問前住宮【永應】御容體。御急迎御勝レ不被遊候由。御容體甚御大切之由御返答也)。
『普門山年譜』寶暦四甲戌年五月廿二日
公主【永應】御養生諸醫雖盡手、不被爲叶、今曉寅刻臨終。正念ニ薨于本光院。天性聰明而御行状正。一黨奉悼惜。薨奏暫延引。御院號勅賜C淨心院。勅許之儀因大聖寺之御先格、同廿四日薨奏。同廿七日發【廢】朝三ヶ日之間也。終于廿九日。同日御下向、平生之躰而不用喪之儀。同廿八日殯于山頭。
『大聖寺之記』
寶暦四甲戌年五月廿四日(實ハ同月廿二日)薨去。御壽五十三歳。勅謚C淨心院。
『執次詰所御系譜』靈元院の子「皇女(圓照寺文應。後大聖寺)」
母藤式部局。元祿十五年十一月廿六(イ廿)日生。號乙宮。・・・・・ 寶永六年五月十一日入寺(八歳)。七年五月十八日得度(九歳)。・・・・・ 享保十年十一月十五日入寺。圓照寺兼帶、改永應。寳暦四年五月廿二日薨(五十三歳)。號C淨心院。葬于和州山村圓照寺。
『系圖綜覽』所收『詰所系圖』靈元院の子「皇女」
圓照寺文應。後大聖寺。  母同上【藤式部局。今城中納言定淳卿女】。  元祿十五年十一月廿六(廿)日生。號乙宮。寳永三年十二月廿一日深曾木。同十七日圓照寺相續。同六年五月十一日入寺(八歳)。同七年五月十八日得度(九歳)。享保十年九月十五日大聖寺相續。同十一年【月】十五日入寺。圓照寺兼帶。改永應。寳暦四年五月二十二(四)日薨(五十三歳)。號C淨心院。葬于和州山村圓照寺。
寳暦四年(一七五四)五月二十四日、「薨去」。五十三歳。
『八槐記』公武御用部 寶暦四年五月廿五日(『廣橋兼胤公武御用日記』四ノ三三一頁)
一、攝政殿被仰。大聖寺前住宮【永應】昨夜薨去之屆有之候由、自同役昨夜深更申入付、今日内々御内儀も被仰談候。兩人方預置、披露ハ來廿七日晩方言上可然之由也。
『ョ言卿記』寶暦四年五月廿七日丙午
大聖寺前住宮【永應】(圓照寺兼帶)去廿四日酉刻入寂。今日言上。依去々年六月七日林丘寺宮入寂之例無廢朝之儀、從今日三ヶ日宮中被止物音了。
『八槐記』公武御用部 寶暦四年五月廿七日(『廣橋兼胤公武御用日記』四ノ三三五頁)
一、兩人參 内。附右大將言上。前住宮【大聖寺永應】去廿四日薨去之事(・・・・・)。依右、自今日三个日宮中可被停物音哉相窺。須臾被 聞食了。從今日三个日宮中被止物音之由被 仰出之由、右大將被示了。
『八槐記』寶暦四年五月廿七日丙午
秉燭參内。柳原大納言同伴。奏大聖寺前住宮(永應女王)去廿四日薨去之由(先觸攝政後奏聞)。自今日三個日省中被停物音。
『御湯殿上日記』寶暦四年五月廿七日
[※大聖寺]前住宮【永應】來【ママ】廿四日かうきよ【薨去】[の]よし御とゞけ書付、兩でんそう【傳奏】より申され候よしニて、儀そう【議奏】より申入らるゝ。きつて【ママ】はいてう【廢朝】ニてもなく、こよひ三日もの音とめらるゝ。
『稙房卿記』寶暦四年五月廿七日丙午
大聖寺前住宮【永應】去廿四日薨、今日及奏聞之【候】間、自今夜至廿九日三ヶ日宮中被止物音云々。
『知音卿記』寶暦四年五月廿七日
大聖寺前宮依薨去自今日三ヶ日禁中御愼。
『通兄公記』寶暦四年五月廿七日丙午
稿本靈元天皇實録』一二五八頁〔按〕に、「本條ノ日次ニ就キ、稙房卿記、通兄公記等ニ二十四日トセルハ薨奏ノ日ヲ記セルナルベシ、」とある。
勅により謚號を「C淨心院」と賜わる。
寳暦四年(一七五四)六月二日、大和國山村圓照寺に葬られる。
『桂宮日記』寶暦四年六月二日庚戌
リ。今日前住宮(C淨心院)御送葬也(南都山村【圓照寺】而被行葬禮)。依之遣源信宴(前夜出足)於葬場令見送(・・・・・)。
『K御所譜』圓照寺「文應入道女王(乙宮)」
寶暦四年六月二日、葬和州山村圓照寺。
『普門山年譜』寶暦四甲戌年六月二日
C淨心院宮御葬送。御引導師京相國寺慈雲常西堂勤之。
類從本『皇胤紹運録』、靈元院の子「大聖寺皇女」
〔始圓照寺。始名文應。母同【藤式部局。今城中納言定淳卿女】〕
元祿十五年十一月廿六日誕生。稱乙宮。寶永六年五月十一日入室于圓照寺(八歳)。同七年五月十八日得度(九歳)。享保十年九月十五日改入室于當寺。寶暦四年五月廿四日薨(五十三)。六月二日葬于和州山村圓照寺。號C淨心院宮。
 
【墓所】
 奈良縣添上郡帶解町大字山字山怩フ圓照寺宮墓地
昭和九年版『陵墓要覽』
皇女 永應女王墓  奈良縣添上郡帶解町大字山字山怐@圓照寺宮墓地
   寶筺印塔 C淨心院 文智女王墓以下七墓同域
 
【逸事等】
文應の時、圓照寺は經濟的な困難に直面したが、家司の「犠牲的な努力」と「一山の整理斷行」によって「稍安定に導かれた」。
末永雅雄『文智女王』、二七七頁上〜二七八頁上
「享保九年九月十五日文應公主は上洛御參内の節、山村【圓照寺】に珍らしい草花もあるかとの御下問に對し奉り「和連茂嘉宇(われもかう)なる草のあることを答えられ、源氏物語の匂宮の巻に記される「われもかう」がそれに該當するかと、院御自らの御考證をなし給うことなどあり山村よりその草を上られた。」
末永雅雄『文智女王』、二七八頁上
 
【文獻等】
稿本靈元天皇實録』一二四七〜一二五九頁「皇女永應女王」
清水正健『皇族考證』第伍巻、三二五〜三二六頁・三三〇頁
末永雅雄『文智女王』(圓照寺、一九五五年)、附載第二「圓照寺略史」一「法嗣」、二七七頁上〜二七八頁下
井野口有一・堀井令以知・中井和子『尼門跡の言語生活の調査研究』(風間書房、昭和四十年(一九六五)八月)、二六頁
谷口陽子『大聖寺控 ── 京の尼門跡の聴き書など ──』(私家版。東京、昭和六十一年(一九八六)九月二版)、三一頁
稿本桃園天皇實録』五二〇〜五二一頁 寶暦四年五月二十七日「是日、大聖寺前住宮永應女王(靈現天皇皇女)ノ薨由ヲ奏ス、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
『系圖綜覽』所收『詰所系圖』 四四頁
服部早苗/西野悠紀子/伴瀬明美/菅原正子/久保貴子『歴史のなかの皇女たち』(東京、小学館、二〇〇二年十二月)「尼門跡表」大聖寺、二七一頁
服部早苗/西野悠紀子/伴瀬明美/菅原正子/久保貴子『歴史のなかの皇女たち』(東京、小学館、二〇〇二年十二月)「皇女一覧表」、二五三頁


 
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更新日時: 2010.03.14.
公開日時: 2003.06.08.


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