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吉野より下向して興國三年(一三四二)五月一日に常陸國の關城に入城した「御一所」・「新竹」は、後の宇津峰宮か。
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『楓軒文書纂』九十所收『結城文書』
此間事委細範忠令申歟。眞實迫喉候者、安否之境猶々可被廻籌策也。敵方之躰ハ大略至極歟。不可被失時節候哉。抑吉ニ御座候つる御一所【後の宇津峰宮か】、今月一日御下向候て無爲之條、返々目出悦入候。未及露顯候。内儀ハ本竹事【興良親王】大略危候而、今も自其境早速發向候者、無爲之扁も候ハんすらん。可任申彼運候。無爲候て如元令憑給候者、雖何方可申付。又新竹【後の宇津峰宮か】令坐候ハんすれハ、諸人仰申之條勿論事候。内々可被得其心候。兼又或仁代官上洛、被下敵方状、勸進諸方之由其聞候。返々無物躰候。内々可有尋沙汰候。漏聞難義之間、兩條密々所令申也。悉之。
五月六日 (花押)【親房】
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『大日本史料』第六編之七、興國四年・康永二年五月六日(庚午)「親房、書ヲ結城親朝ニ與ヘ、某宮ノ御東下、及ビ興良親王ノ御近状ヲ報ジ、且、敵軍微弱乘ズベク、關城糧乏シク支ヘ難キヲ告ゲ、切ニ救援ヲ促ス、」
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『關城書考』七
白河文書親房状 ・・・・・ 吉野御坐候宮御一所云々トハ、吉野ノ行宮ニ居タマヒシ親王、五月一日ニ關城ヘ下向アリシコトヲ云ナリ、是親王名字ヲ記サヽレハ、何レノ連枝ニテアリケンコト知ベカラズ(相馬文書、相馬系圖等ヲ考ルニ、正平六七年ノ際、北畠顯信陸奧ニ在テ、宇津峯宮ヲ奉シテ、賊軍ト戰フコトアリ、宇津峯ハ顯信ノ陣營ノアル所ノ地名ナリ、親王モ其地ニ在留アリシ故ニ、宇津峯宮ト稱セシト見エタリ、思フニ今度關城ニ下向アリシ親王、關城沒落ノ後、顯信ノ方ニワタリタマヒテ、宇津峯ノ在留アリケンニモアランナレド、他ノ證ナケレバ詳ニ辨スヘカラス、大日本史ニ、宇津峯親王ノ説アレト誤ナリ、)本竹トハ、是ヨリ先當國ニ下リ給ヒシ興良親王ヲサシ、新竹トハ、今度下向アリシ親王ヲ云ナリ、竹ハ竹園ノ義ナリ(親王ノ唐名竹園ト云ヘハナリ、)・・・・・
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久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』(早稲田大學出版部、大正五年(一九一六)二月)五六一頁に、
高師冬の軍大に疲困し、關大寶兩城も亦糧盡きたり、伊達行朝伊佐の糧を分つて關城に餉り、支へて月を越ゆるを得たり、田村宗季金千疋を大寶城に餽るも達せず、春日顯時僧を賴みて調辨せしむ。小田親郷(初名朝氏)素より兩端を持す、結城親朝勸めて事を倶にせんとす、故を以て因循不斷にて月日を送れり、大塔若宮親郷の言を信じ、出でて其城に赴き、親郷これを奉じながら遂に事を擧げず、北畠准后密に吉野に奏して別に親王の下向を請ふ、五月一日、某親王(後に宇都宮【宇都峯宮歟】といふ)關城に入る、准后これを秘し、明日使を白河に遣はし密に親朝に告げて、前親王は危殆なれども其方さへ決行せられなば無事なるを得ん、當城には新親王を迎へたれば、軈て四方より之を仰ぐべしと。親朝の使者は行違ひ十餘日を經て關城に達し、諸族申合せて來援せんとする由を報ず、・・・・・
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とある。
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魚住惣五郎『吉野朝史』一(綜合日本史大系 第六巻 一)(東京、内外書籍株式會社、昭和二年二月發行、昭和十五年(一九四〇)八月訂正再版)二九二頁に、
常陸では興國三年三月下野の小山朝卿が迎へるまゝに興良親王は大寶城を出られて小山に赴かれた。四月になつて春日顯時は大寶寺城より關城に入り、勝に乘じて伊佐城に轉じ屢々敵を敗り關城を援けた。五月某親王(註)吉野より下向せられて關城に入られたが、常陸の諸城は依然として危急であつたので、親房はこゝにまた急使を結城親朝に送つて伊達、田村、石川の諸氏は直に應ずるから親朝の季子朝胤に兵を副へて、伊達以下の兵と共に伊佐城の兵に合して關城を救援せんことを求めた。
〔註〕 此親王の御名は明かでない。或は尊良親王の御子にて顯信に奉ぜられた宇都峯宮ともいはれてゐる。
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とある。
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常陸の關城・大寳城に居たが、興國四年(一三四三)十一月の落城後、陸奥埋峯(宇津峯)に入る。
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久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』五六四~五六五頁に、
九月高師冬關城に迫り、船を湖に泛べて黑子に綴り、大寶の往來を絶つ(集古文書)、親房既に死を決す、往年著はせる神皇正統記を校訂し、補ひて興國に至り、これを吉野に献じ(古本神皇正統記)、猶守禦する兩月なるも外援至らず(別府、税所文書)、十二月十一十二日兩城相繼いで陷ゐり(相馬文書)、關宗祐、下妻政泰等討死す(結城家譜、關城書考)、某親王は陸奧の春日顯信の許に走り(結城文書)、親房は吉野に逃歸る(阿蘇文書)、師冬兵を伊佐に移し、伊達行朝は出降る(別府、税所文書)、・・・・・ 常陸諸城敗れ、其殘徒多く陸奧に逃入る、石堂義房諸郡の關門を固めしめ、若し徴發に應ぜぬ者は捕致し、延遷する者は違亂に科す(相馬文書)と令す、是より南黨は陸奧國司に集り、某親王を奉じて北軍を拒め【五六五頁】り。
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とあり、同五六九頁に、
〔陸奧。九州の南軍不利〕 吉野には北畠准大臣の歸朝せし比なれば、其賛畫にや、恢復の運籌をなして四月諸國に師期を戒しめ大藏卿某旨を阿蘇惟時に傳へて、征西府に軍忠を致さんことを勸勉す(阿蘇文書)、其他も幕府に欺瞞せられて失操を後悔したるの徒は多く此例の勸誘を受けたるべし。斯くて諸國の形勢寖く變化し、鎭守府には將軍春日顯信某親王を奉じて、田村荘の宇都峯に兵を擧ぐ、石堂義房報を得て、子賴房(左馬助)を將となし廿二日進發し、相馬親胤を先鋒となし、直義の沙汰として岩城郡平窪關所を飯野八幡宮に寄附して逆徒平定を禱り、標葉荘落合を社領となして伊賀氏の心を慰勉す、軍遂に利なく秋に至り顯信の軍進んで伊達信夫郡に入る(岩城、相馬、飯野文書)、爾後の事は徴跡乏し、是より某親王は宇都峯宮と稱す。
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とある。
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正平二年(一三四七)九月、埋峯落城により源朝臣顯信[北畠]と共に出羽へ逃れた。
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正平六年(一三五一)十月、伊達・田村一族と共に多賀國府を攻撃、占領。
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『相馬文書』二
「【端裏書】右京大夫注進(文和二三廿四)」
相馬出羽守親胤申恩賞事、申状一卷、謹令進覽之候。・・・・・ 加之、去年宇津峯宮、伊達飛彈前司、田村庄司一族以下凶徒、府中襲下之處、同十月廿二日、馳向柴田郡倉本河、一族并郞從數輩手負打死之上、親胤被疵候。・・・・・ 親胤軍忠若僞申候、八幡大菩薩御罰於可罷蒙候。以此旨可有御披露候。恐惶謹言。
觀應三年十一月廿二日 右京大夫貞家【吉良】(花押)
進上 仁木兵部大輔【賴章】殿
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『大日本史料』第六編之十五、觀應二年十月二十二日「宇津峯宮、伊達田村ノ族ヲ率テ、陸奧府中ヲ攻メ給フ、北黨相馬親胤、武石道倫等、倉本河船迫等ニ防ギ戦フ、」 五二八頁
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正平六年(一三五一)十一月末、源朝臣貞家[吉良]を名取郡廣瀬河に破る。
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有造館本『結城古文書写』坤
結城参河守朝常申恩賞事、申状一通、謹令進覽候。去年宇津峰宮、伊達飛騨前司、田村庄司一族、及宮城郡山村・宮以下凶徒、寄來名取郡之時、差進代官結城又七兵衞尉并軍勢、同十一月廿二日、於同郡廣瀨河致軍忠之刻、郞從被疵候。加之、顯信卿【北畠】以下田村賊徒對治之處、今年七月三日、朝常於唐久野、凶徒多討捕之、致戰功之上、至于田村矢柄宇津峯當陣、抽忠節候。仍可浴恩賞之旨令言上候。急速可被經御沙汰哉。朝常軍忠若僞申候者、八幡大菩薩御罰於可罷蒙候。[以]此旨可有御披露候。恐惶謹言。
觀應三年十月廿九日 右京大夫貞家【吉良】(花押)
進上 仁木兵部大輔【賴章】殿
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『大日本史料』第六編之十五、觀應二年十一月二十二日「宇津峰宮。伊達田村諸氏ヲ率ヰテ、吉良貞家ヲ名取郡廣瀨河ニ攻ム、貞家敗退シテ伊具館ニ入ル、」 六〇二頁
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正平七年(一三五二)、田村荘に退き、同年七月、田村荘より宇都峯に退く。
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久米邦武『訂正増補 大日本時代史 南北朝時代史』六六三頁に、
〔奧羽の形勢〕 鎭守府將軍春日顯信は畠山吉良兩探題の中惡しきに乘じて攻守を謀りしに尊氏吉野に降り、勅命を稱して不順の徒を退治せしむと雖も、國人多くは吉良貞家に就いて其命に抗せり、貞家令す、將軍の命ありとも顯信より兵を加ふるを以て其備をなさヾるを得ずとて、兵を名取郡に集む、顯信は柴田郡に營せり。尊氏復叛くに及んで、顯信は大波城より田村荘に退き、宇都峯の險に據りて自ら保つ、四月貞家これを攻めんと戸谷田(安積郡)に陣し兵を催して相對すること數旬なり、七月相馬、國魂、伊賀諸氏の兵を得て進攻し、三日顯信の軍と柄久原に戰ふ、利なし。顯信も亦久しきを支えず、宇都峯宮を奉じて田村を去らんとす、貞家偵知して、道路を警固し懸賞して宮を捕へしむ、尋いで鎭守府の軍を市庭矢柄に攻め、八月進んで宇都峯を攻む、顯信志を得ずして此年を終れり(相馬國魂飯野文書)。
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とある。
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