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『 親 王 ・ 諸 王 略 傳 』
  
[安仁A]
 
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□ 安仁親王 しづひと
 
【稱號】
 「
鍠宮」 おさのみや
惶宮」は誤り。
 
【法號】
 「妙荘嚴院宮
 
【出自】
 仁孝天皇の一男。
 
【生母】
 藤原朝臣繋子
 女御
 藤原朝臣政煕[鷹司]の女子。
 
【經歴】
文政三年(一八二〇)五月十六日亥半刻、誕生。
『御系譜補』
皇子。御母女御從三位藤原繋子。鷹司准三后政煕公女。・・・・・ 文政三年五月十六日亥半刻降誕(先是女御被移桂芳坊代産皇子給。以女御御殿被擬桂芳坊)。廿二日號鍠宮。・・・・・四年六月六日立親王宣下()。御諱安仁。・・・・・ 九日薨(二歳)。奉號妙荘嚴院。・・・・・
『禁裏執次詰所日記』文政三年五月十六日辛未
一、戌半刻比、女御御方【藤原繋子】御産御催之旨、子刻過、執次中より申來。奧議奏衆申上ル。
一、女御御方、今夜(亥剋)御平産、若宮(安仁親王)御降誕信御機嫌能被爲成候旨、執次中より廻状を以、子半刻、申來。奧議奏衆江申上。御附衆詰合ニ付、書付申達。同役諸役所申觸、爲心得仙洞御所、大宮御所執次中廻状を以申達。
『實久卿記』文政三年五月十六日辛未
雨。今夜俄ニ女御【藤原繋子】御産氣アリ。亥刻斗、皇子降誕云々。尤俄之儀、里御殿御退出間無之、以飛香舍被擬桂芳坊降誕云々。付女房慶賀申上。御劒使右少將公尹朝臣云々。
『近代散状留』文政三年五月十六日
女御皇子誕生。
『毫埃』文政三年五月十六日
女御御安産。皇子降誕。
『三寶院日次記』文政三年五月十七日
今寅刻、傳奏山科殿より御裏書到來。寫差下、口上覺。女御樣今夜亥刻御安産。若宮様御誕生被爲在。此段爲御心得可申入旨、兩傳[奏]被申付候。以上。
『禁裏執次詰所日記』文政三年五月十七日壬申
一、皇子降誕御劒勅使               西四辻少將
 右議奏衆御達書面御附衆被爲見。
稿本仁孝天皇實録』三三二〜三三三頁 文政三年五月十六日、「女御藤原繋子、皇子(安仁親王)ヲ誕ス、仍ツテ十七日、勅使ヲ遣シテ、御劒ヲ賜フ、」
鍠宮
文政三年(一八二〇)五月二十二日、「鍠(於佐/ヲサ)宮」と稱される。
『禁裏執次詰所日記』文政三年五月廿二日丁丑
一、女御御方御使 長橋殿 大和殿 (添使)右京大夫
  若宮樣
   御太刀 一腰   御馬代黄金 壹枚   御産衣 五重   昆布 一箱   鯣 一箱
   干鯛 一箱   御樽 貳荷
  女御御方
   白銀 三拾枚   三種 貳荷前同斷
 右之通被爲進。御品御使番持參。
一、若宮樣、向後奉稱鍠(【傍】於佐)宮より候旨被仰出候段議奏衆被仰渡。御附衆以書面申達同役諸役所申觸。御所々々女御御方執次廻状申達。右御同樣以御書付長橋殿より當番被仰渡。
 右御同樣議奏衆御達書面御附衆被爲見。
『實久卿記』文政三年五月廿二日丁丑
雨。今日若宮御七夜。仍參御所々々申上慶賀。若宮被稱鍠(【振假名】ヲサ)宮了。
稿本仁孝天皇實録』三三三〜三三四頁 文政三年五月二十二日、「皇子(安仁親王)御七夜ノ御祝儀アリ、鍠宮ト稱セラル、」
安仁親王
文政四年(一八二一)六月七日、親王宣下。諱「安仁(しづひと)」
『忠言卿傳奏記』文政四年六月六日乙酉
一、曉更、鍠宮御違例以外不被爲勝云々。議奏コ大寺以状被告。同役ヨリモ爲心得被告。先准后走參(未明也)、窺御機嫌。甚御危篤云々。天曙殿下令候給。辰刻前、殿下御參内。予又參内。
一、諸臣一統有窺御機嫌。
『忠言卿傳奏記』文政四年六月七日丙戌
一、今曉巳刻、鍠宮有親王宣下。奉行職事光成朝臣
   公卿
  左大臣     (勅別當)コ大寺大納言  ・・・・・
一、親王御諱 安仁(志豆比登) 自議奏被傳了。
一、鍠宮御違例御養生、今晩鷹司家御退出可有之可達本家關白殿被命。鷹司殿諸大夫召寄申入。御請關白殿申入(右御退出所之儀ニ付、昨日已來彼是所々往來。依無u不筆記)。
『毫埃』文政四年六月七日
鍠宮立親王。御諱安仁。
『近代散状留』文政四年六月七日
鍠宮立親王(安仁)宣下。
『三寶院日次記』文政四年六月七日
鍠宮樣今日親王宣下。
文政四年(一八二一)六月九日巳刻、薨去。
『禁裏執次詰所日記』文政四年六月九日戊子
リ。
一、鍠宮樣【安仁親王】今日巳刻薨去之旨、被仰出。依之從今日明後十一日迄三ヶ日之間廢朝之旨被仰出候段、奧議奏衆被仰渡。表口呼鐘停止候樣、議奏衆非藏人を以被仰渡、御附衆以書面申達。同役諸役所申觸。仙洞御所、大宮御所、准后御方執次中以廻状申遣。修理職申渡。御本所御用掛も爲心得申達。
『光格天皇日次案』文政四年六月九日戊子
リ。
鍠宮【安仁親王】、今日(巳刻)薨去。因茲自今日至來十一日三箇日、洞中被停物音。
『毫埃』文政四年六月九日
安仁親王薨去。三ヶ日廢朝。・・・・・ 號妙荘嚴院宮。
『三寶院日次記』文政四年六月十日
辰半刻、御里坊より飛脚を以注進。昨夜亥刻、梅溪殿より被相招候に付、・・・・・ 鍠宮樣御違例、御養生不被爲叶、就今日巳刻薨去。今日三日廢朝被仰出候。
稿本光格天皇實録』一八三六頁 文政四年六月九日、「仁孝天皇ノ皇子鍠宮、薨ズ、仍ツテ是日ヨリ三箇日間、物音ヲ停メラル、」
天保八年(一八三七)六月八日、泉涌寺において、六月九日、般舟三昧院および泉涌寺において、十七回忌の佛事が行われる。
『實久卿記』天保八年六月九日乙卯
陰リ不定。今日、妙荘嚴院宮【安仁親王】(親王。今上【仁孝天皇】皇子)十七回御忌也。昨日於泉涌寺有御佛事。今日於般舟三昧院・泉涌寺等有佛事。奉行藏人右少辨恭光。參仕公卿・殿上人等有別記。
『光格天皇日次案』天保八年六月九日乙卯
曉來雨、辰刻許歟。其後陰リ。
依妙荘嚴院宮【安仁親王】十七回御忌、御代參于兩寺【般舟三昧院、泉涌寺】。般舟三昧院實麗朝臣【橋本】、泉涌寺保實【高野】。
稿本仁孝天皇實録』七九五頁 天保八年六月九日、「妙荘嚴院宮十七回忌ナリ、般舟三昧院竝ニ泉涌寺ニ於テ御法事ヲ行ハル、」
稿本光格天皇實録』二二八三〜二二八四頁 天保八年六月九日、「妙荘嚴院宮ノ十七回忌ニ依リ、御代參トシテ般舟三昧院ニ橋本實麗ヲ、泉涌寺ニ高野保實ヲ遣サル、」
弘化二年(一八四五)六月八日、泉涌寺において、六月九日、般舟三昧院および泉涌寺において、二十五回忌の佛事が行われる。
『實麗卿記』弘化二年六月九日己亥
リ。昨今、妙荘嚴院宮(當今【仁孝天皇】皇子)二十五回御忌。於兩寺【般舟三昧院、泉涌寺】有御法會。奉行顯彰云々。
『實久卿記』弘化二年六月九日己亥
リ。卯終刻參般舟三昧院(衣冠奴袴。自此院參内。依便也。乘馬。供士四人)。今日、妙荘嚴宮廿五回御忌也。御法會候詰也。・・・・・
『定祥卿記』弘化二年六月九日己亥
天リ。此日依妙荘嚴院宮【安仁親王】廿五回御忌。三卿組合獻饅頭(五十)於内・女院・准后等。八條三位被催了。内御代香、般舟院【般舟三昧院】、昨日治部卿(久雄卿)參仕。泉涌寺、今日中山中納言參向云々。御法會、昨日泉涌寺許。今日於兩寺【般舟三昧院、泉涌寺】被行云々。着座以下追可尋注。
稿本仁孝天皇實録』一〇九六〜一〇九七頁 弘化二年六月九日、「妙荘嚴院宮二十五回忌ナリ、仍ツテ般舟三昧院竝ニ泉涌寺ニ於テ御法事ヲ行ハル、」
 
【文獻等】
清水正健『皇族考證 第伍巻』、四一三頁
稿本仁孝天皇實録』三六三〜三六四頁 文政四年六月七日、「皇子鍠宮ニ親王宣下アリ、名ヲ安仁ト賜フ、」



 
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更新日時: 2007.06.11.
公開日時: 2004.01.19.


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