「門跡」の起源は、一説に宇多法皇が仁和寺に入室したことに始まるとされているが、これは不正確である。本來「門跡」とは、師資相承して法脈を傳える「門葉門流」の意で、祖師の法統の繼承者を指す語として用いられていたものである。 鎌倉時代の初期から、皇族や攝關家等の子弟が出家して居住する僧房は、各門流を各々繼承することによって膨大な荘園を所有し、その經濟力ならびに俗系を背景とした政治力を以て、寺内の支配權を掌握するに至った。ここに、「門跡」とは、「貴種」出身者によって相承される特定の院家・寺院を指す稱號へと變化した。そして、遲くとも室町期までには、寺院の格式としての「門跡」が確立し、室町幕府には、門跡寺院に關する政務を執る門跡奉行が置かれている。 『續群書類從』巻第六十一「系譜部」二に所収の『諸門跡譜』には、門跡として次の二十九寺院が列擧されている。
門跡の格は、室町時代には、親王門跡(宮門跡)、攝家門跡、公方門跡、准門跡(脇門跡)があったが、慶長二十年(一六一五)七月十七日の「禁中竝公家諸法度」第十三條において、
親王門跡(宮門跡) 攝家門跡 准門跡(脇門跡) の三門跡が確定された。但し、これらの格は必ずしも固定したものではなく、門跡が皇族出身である場合は「親王門跡」に、五攝家出身(九清華出身者で攝家の猶子となった場合も含む)である場合は「攝家門跡」に格付けられた。「准門跡」は、蓮華光院(文政四年正月以降、大覺寺門跡の兼帶となる)以外は皆 淨土眞宗で世襲であった。なお、比丘尼御所は「比丘尼御門跡」とも稱されるが、これは「禁中竝公家諸法度」において規定された「門跡」の中には含まれていない。 幕末、國事多難となるに及び、青蓮院宮が還俗して中川宮(のちの久邇宮)となり、勸修寺宮が還俗して山階宮となり、國事に當った。さらに、王政復古に際し、慶應四年(一八六八)正月、輪王寺門跡を除く宮門跡 ・ 宮門跡附弟は悉く還俗した。なお、「戊辰戰爭」において官軍に抵抗した輪王寺宮は、謹愼を解かれた後、明治二年(一八六九)十一月五日に還俗している。
摂家門跡のうち、興福寺の一乘院 ・ 大乘院兩門跡は、他の興福寺院家と共に、慶應四年(一八六八)四月二十九日、復飾を命じられ、明治二年(一八六九)二月三日、家名を賜わり、同年三月六日、「堂上格」に列され、明治十七年(一八八四)七月八日、男爵を授けられた(所謂「奈良華族」。但し、興福寺院家の中には、經歴の異なる諸家もある)。 隨心院門跡増護は、最後の非皇族准三后として、明治八年(一八七五)に沒した。隨心院門跡附弟増縁は、明治五年(一八七二)五月十三日に還俗した。
明治政府の佛教抑壓政策のもと、明治四年(一八七一)五月、「門跡」の稱號は廢止された。
この時に「門跡」號を認められたのは、明治初に廢絶した一乘院 ・ 大乘院 ・ 蓮華光院を除く舊門跡寺院と、滋賀院(輪王寺宮の兼住寺であった)および圓照寺であった。舊「比丘尼御所」の圓照寺は、文秀女王(邦家親王の女子)が隱居として入室していたことにより門跡に加えられたと考えられている。また、輪王寺門跡號は、東叡山輪王寺(寛永寺)と日光山輪王寺の兩寺に認められている。 ● 未讀の史料 ・ 研究文獻が あまりに多く、錯誤や問題點が數多く存在している。順次、増補 ・ 訂正していきたい。 ●『皇室制度史料 皇族 三』(宮内庁編。吉川弘文館、昭和六十年(一九八五)三月)第四章第三節「出家と復飾」、三四一〜四〇一頁 ● 佐野惠作『皇室と寺院』(明治書院、昭和十四年(一九三九)二月) ● 圭室諦成「門跡の研究」(鷲尾順敬監修『佛教文化大講座』第三囘(東方佛教協會/大鳳閣。昭和九年(一九三四)五月)所収) ● 福原隆善「もんぜき 門跡」(『國史大辭典』第十三巻(吉川弘文館、一九九二年四月第一版)、九〇三〜九〇四頁) ● 杣田善雄「近世の門跡」(『岩波講座 日本通史』第11巻 近世1(岩波書店、一九九三年十二月)、三〇一〜三二二頁所収) ●
更新日時 : 2003.02.11. 公開日時 : 2001.06.22. |