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『 日本の親王 ・ 諸王 』 より

門 跡 總 説


 「門跡」の起源は、一説に宇多法皇が仁和寺に入室したことに始まるとされているが、これは不正確である。本來「門跡」とは、師資相承して法脈を傳える「門葉門流」の意で、祖師の法統の繼承者を指す語として用いられていたものである。
 鎌倉時代の初期から、皇族や攝關家等の子弟が出家して居住する僧房は、各門流を各々繼承することによって膨大な荘園を所有し、その經濟力ならびに俗系を背景とした政治力を以て、寺内の支配權を掌握するに至った。ここに、「門跡」とは、「貴種」出身者によって相承される特定の院家・寺院を指す稱號へと變化した。そして、遲くとも室町期までには、寺院の格式としての「門跡」が確立し、室町幕府には、門跡寺院に關する政務を執る門跡奉行が置かれている。
 『續群書類從』巻第六十一「系譜部」二に所収の『諸門跡譜』には、門跡として次の二十九寺院が列擧されている。
 
仁和寺
御室
青蓮院 隨心院
小野曼荼羅寺
淨土寺 平等院 本覺寺
法住寺 安祥寺 妙香院
禪林寺
永觀堂
常住院 如意寺
毘沙門堂 聖護院 梶井殿
梨本門跡
蓮華光院
安井門跡
三寶院 勸修寺
圓滿院 一乘院 大乘院
輪王寺滋賀院
日光山御門跡
妙法院
新日吉門跡
實相院
曼殊院
竹裏門跡
大覺寺 東南院
上乘院 知恩院
上記の諸寺院のうち、淨土寺、平等院、本覺寺、法住寺、安祥寺、妙香院、禪林寺、常住院、如意寺、東南院、上乘院の各寺院は、江戸時代には「門跡」の寺格に列されなかった。
 これら以外にも、門跡寺院として、勝寶院金剛王院菩提院教令院 などが知られている。また、室町時代には粟田口にあった三井別院の花頂院が門跡の寺格を有していたが、「應仁の亂」において燒亡し、再建されぬままに圓滿院の兼帶となり、室町時代末期には そのまま圓滿院に攝収されて消滅した、という事例がある。
◎ 勝野隆信「花頂門跡考」(『日本歴史』第七五號、一九五四年八月、三九〜四〇頁
 室町時代後期以降、本願寺をはじめとする淨土眞宗の諸寺が准門跡に列せられた。
 門跡の格は、室町時代には、親王門跡(宮門跡)、攝家門跡、公方門跡、准門跡(脇門跡)があったが、慶長二十年(一六一五)七月十七日の「禁中公家諸法度」第十三條において、
攝家門跡者可爲親王門跡之次座。・・・・・ 但皇子連枝之外門跡者、親王宣下有間敷也。・・・・・ 攝家門跡 ・ 親王門跡之外門跡者、可爲准門跡事。・・・・・
と明記され、
  親王門跡(宮門跡)
  攝家門跡
  准門跡(脇門跡)
の三門跡が確定された。但し、これらの格は必ずしも固定したものではなく、門跡が皇族出身である場合は「親王門跡」に、五攝家出身(九清華出身者で攝家の猶子となった場合も含む)である場合は「攝家門跡」に格付けられた。「准門跡」は、蓮華光院(文政四年正月以降、大覺寺門跡の兼帶となる)以外は皆 淨土眞宗で世襲であった。なお、比丘尼御所は「比丘尼御門跡」とも稱されるが、これは「禁中公家諸法度」において規定された「門跡」の中には含まれていない。
 幕末、國事多難となるに及び、青蓮院宮が還俗して中川宮(のちの久邇宮)となり、勸修寺宮が還俗して山階宮となり、國事に當った。さらに、王政復古に際し、慶應四年(一八六八)正月、輪王寺門跡を除く宮門跡 ・ 宮門跡附弟は悉く還俗した。なお、「戊辰戰爭」において官軍に抵抗した輪王寺宮は、謹愼を解かれた後、明治二年(一八六九)十一月五日に還俗している。
 
幕末・維新期親王還俗一覽
青蓮院門跡尊融親王文久三年(一八六三)二月十七日朝彦親王
アサヒコ
中川宮のち賀陽宮、久邇宮
もと勸修寺門跡濟範文久四年(一八六四)正月九日晃親王
アキラ
山階宮 
仁和寺門跡純仁親王慶應三年(一八六七)十二月九日嘉彰親王
ヨシアキ
東伏見宮のち小松宮彰仁親王
聖護院門跡雄仁親王慶應四年(一八六八)正月七日嘉言親王聖護院宮 
知恩院門跡尊秀親王慶應四年(一八六八)正月七日博經親王華頂宮 
梶井門跡昌仁親王慶應四年(一八六八)閏四月十五日守脩親王
モリヲサ
梶井宮のち梨本宮
聖護院門跡附弟
「照高院宮」
信仁親王慶應四年(一八六八)閏四月十五日智成親王照高院宮のち北白川宮
もと輪王寺門跡
「伏見滿宮」
公現明治二年(一八六九)十一月五日のち能久王のち北白川宮を相續。
北白川宮能久親王

 摂家門跡のうち、興福寺の一乘院 ・ 大乘院兩門跡は、他の興福寺院家と共に、慶應四年(一八六八)四月二十九日、復飾を命じられ、明治二年(一八六九)二月三日、家名を賜わり、同年三月六日、「堂上格」に列され、明治十七年(一八八四)七月八日、男爵を授けられた(所謂「奈良華族」。但し、興福寺院家の中には、經歴の異なる諸家もある)。
 隨心院門跡増護は、最後の非皇族准三后として、明治八年(一八七五)に沒した。隨心院門跡附弟増縁は、明治五年(一八七二)五月十三日に還俗した。
 
前大乘院門跡知心院
前大僧正法印
隆温松園隆温慶應四年(一八六八)四月二十九日、還俗。
明治二年(一八六九)二月三日、「松園」の家名を賜わる。
大乘院門跡前大僧正法印隆芳松園尚嘉隆温の資
慶應四年(一八六八)四月二十九日、還俗。隆温の養子となる。
明治二年(一八六九)二月三日、「尚嘉」と改名。
明治十七年(一八八四)七月八日、男爵を授けられる。
一乘院門跡前大僧正法印應昭水谷川忠起慶應四年(一八六八)四月二十九日、還俗。
明治二年(一八六九)二月三日、「水谷川」の家名を賜わる。
明治十七年(一八八四)七月八日、男爵を授けられる。
隨心院門跡准三宮増護明治八年(一八七五)十一月十二日沒。
隨心院門跡附弟 増縁のち殿忠善
鶴殿忠善
明治五年(一八七二)五月十三日、還俗、九條家に「歸籍」。
明治六年(一八七三)七月二十六日、岡山縣士族伊木忠恭の養子となる。
明治二十一年(一八八八)十二月二十日、伊木家を離籍、九條家に復籍。
明治二十二年(一八八九)十二月十八日、九條家分家として「殿」の家名を再興し、男爵を授けられる。のち家名を「鶴殿」に改める。

 明治政府の佛教抑壓政策のもと、明治四年(一八七一)五月、「門跡」の稱號は廢止された。
◎ 明治四年五月「太政官布告」第二百七十
◎ 明治四年六月十七日「太政官布告」第二百八十七
 その後、西本願寺等が門跡號の復活を内務卿に願い出、論議の結果、主に明治十八年(一八八五)から明治十九年(一八八六)にかけて、内務卿/内務大臣の指令により、二十四箇寺に「門跡」號が認可された。
 この時に「門跡」號を認められたのは、明治初に廢絶した一乘院 ・ 大乘院 ・ 蓮華光院を除く舊門跡寺院と、滋賀院輪王寺宮の兼住寺であった)および圓照寺であった。舊「比丘尼御所」の圓照寺は、文秀女王(邦家親王の女子)が隱居として入室していたことにより門跡に加えられたと考えられている。また、輪王寺門跡號は、東叡山輪王寺(寛永寺)と日光山輪王寺の兩寺に認められている。



 ● 未讀の史料 ・ 研究文獻が あまりに多く、錯誤や問題點が數多く存在している。順次、増補 ・ 訂正していきたい。



文 獻

 ●『皇室制度史料 皇族 三』(宮内庁編。吉川弘文館、昭和六十年(一九八五)三月)第四章第三節「出家と復飾」、三四一〜四〇一頁
 ● 佐野惠作『皇室と寺院』(明治書院、昭和十四年(一九三九)二月
 ● 圭室諦成「門跡の研究」(鷲尾順敬監修『佛教文化大講座』第三囘(東方佛教協會/大鳳閣。昭和九年(一九三四)五月)所収
 ● 福原隆善「もんぜき 門跡」(『國史大辭典』第十三巻(吉川弘文館、一九九二年四月第一版)、九〇三〜九〇四頁
 ● 杣田善雄「近世の門跡」(『岩波講座 日本通史』第11巻 近世1(岩波書店、一九九三年十二月)、三〇一〜三二二頁所収
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更新日時 : 2003.02.11.
公開日時 : 2001.06.22.

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