廣徳山總持院 「薄雲御所」 臨濟宗 (通玄派)。 現在、寺號「慈受院」として、京都市上京區寺ノ内通堀河東入ル百々町504 に所在。 江戸時代の所領は七十四餘斛。 室町將軍源朝臣義持の女子 桂芳宗繁の開創。義持の室、從一位藤原朝臣榮子(慈受院。日野大納言資康の女子)の開基とする。 ※「慈受院」をも見よ。 天正十一年(一五八三)四月、貞敦親王[伏見宮]の女子 周恭が入室した(第五世)が、翌天正十二年(一五八四)五月二十七日、早世した。 第六世には、藤原朝臣前久[近衛]の女子が喝食として入室したが、相續六年にして天正十七年(一五八九)、近衛家に戻り、後陽成院のもとに入内した(藤原朝臣前子)。以後、八年、總持院は無住となった。 江戸時代には、主に近衛家 ・ 花山院家(近衛家の猶子となる)から入室した。 天明八年(一七八八)の大火によって燒亡し、准三后藤原朝臣〓【衣某?※「示其」歟】子(新朔平門院?)の産殿を移築して再建。 文化十年(一八一三)四月九日、第十三世天心瑞浩の入寂後、無住となった。 明治六年(一八七三)四月三十日、明道尼が入室し、明治九年(一八七六)以降、寺門永續のため皇室より年金を下賜された。 明治六年(一八七三)、開基を同じくする慈受院(曇華院の兼管)を併合した。 總持院は、「慈受院」−− 御宮室として寺格が高く、また、開祖の法號でもある −− の寺號を繼續させるべく、大正八年(一九一九)三月、京都府に願書を提出、大正八年(一九一九)四月十一日、慈受院の寺號を復興した。そのため、總持院の寺名は消滅した。 ※「慈受院」をも見よ。 【文獻等】 ●『曇華院藏 通玄寺志』(飛鳥井慈孝編。東京、笠間書院、昭和五十三年(一九七八)十一月) ● 佐野惠作『皇室と寺院』(明治書院、昭和十四年(一九三九)二月) ●「慈受院 じじゅいん」(『京都大事典』(京都、淡交社、一九八四年十一月)、四五四頁) ●「慈受院 じじゅういん」(金岡秀友編『古寺名刹大辞典 (新装普及版)』(東京、東京堂出版、一九九二年五月)、一八三頁)
更新日時 : 2003.01.13. 公開日時 : 2001.11.30. |