「烏丸御所」 臨濟宗 (通玄派)。 もと、高倉中御門北にあり。寶永五年(一七〇八)の大火で燒亡、その後、新烏丸(京都市上京區寺ノ内通)−− 寺町荒神口下ル −− に移轉。 現在、京都市上京區寺ノ内通堀河東入ル百々町504 に所在している慈受院は、「總持院」より寺號を改めたもの(下文を參照せよ)。 江戸時代の所領は九十八餘斛、現米五十斛。 室町將軍源朝臣義持の室 從一位藤原朝臣榮子(慈受院。日野大納言資康の女子)が開基。藤原榮子は、義持が薨逝した(應永三十五年(一四二八)正月十八日)翌月、相國寺慧〓【大+歳】(佛慧正續國師)の弟子となって落飾、通玄寺開基智泉の法嗣となった。 ※「總持院」をも見よ。 應仁の亂に於て燒亡。 第七世は、後西院の女子 大圓宗悟。明正院の院旨により、後西院の後宮 妙吉祥院(延寶八年(一六八〇)七月八日薨)、および、後西院の女子 清淨觀院(貞享三年(一六八六)十二月二日薨)の追薦料となり、清淨觀院の所領 二百斛のうち五十斛が慈受院に附せられた。 大圓宗悟の沒後、その姉にあたる曇華院宮大成聖安(通玄寺第二十四世)が慈受院を兼帶。以後、幕末まで、慈受院は曇華院の兼帶となった。 明治六年(一八七三)、開基を同じくする總持院が、曇華院に兼管されていた慈受院を併合した。明治九年(一八七六)以降、寺門永續のため皇室より年金を下賜されたが、寺門衰亡してその實なく、慈受院の寺號は消滅に瀕した。よって、大正八年(一九一九)四月、總持院は、「慈受院」−−「御宮室」として寺格が高く、また、開祖の法號でもある −− の寺號を繼續させるべく、「慈受院」の寺號を復興し、「總持院」の寺號を廢して「慈受院」と改稱した。 ※「總持院」をも見よ。 【文獻等】 ●『曇華院藏 通玄寺志』(飛鳥井慈孝編。東京、笠間書院、昭和五十三年(一九七八)十一月) ● 佐野惠作『皇室と寺院』(明治書院、昭和十四年(一九三九)二月) ●「慈受院 じじゅいん」(『京都大事典』(京都、淡交社、一九八四年十一月)、四五四頁)
更新日時 : 2003.01.13. 公開日時 : 2001.07.11. |