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『 日本の親王 ・ 諸王 』
比 丘 尼 御 所 より


養 林 庵


 比丘尼御所寶鏡寺の小上臈。
 もと臨濟宗
 所在、京都市上京區。
 所領は山城國紀伊郡深草村の内、三十一斛。
 天正十三年(一五八五)に、寶鏡寺の上臈として建立されたと傳えられる。
 寛永年間に再興(春松院壽光を中興開山とする)。
 本寺 寶鏡寺側の主張によると、養林庵開基の當初は、園家の女子が住持として相續するのが恆例であったという。その後、廢絶。
 松平玄蕃頭家清の女子である春松院壽光(母は徳川家康の異父妹である天桂院。夫は松平忠利)は、出家して、然るべき庵地を捜し求め、既に「亡所」となっていた養林庵の寺地を寶鏡寺理光から申し請けた。春松院は、生母 天桂院の菩提とするため家康の黒印状と將軍秀忠の朱印状を得、堂舍の普請は春松院の弟である松平玄蕃頭清昌によって行われたが、自力での建立が困難であった。そこで、春松院は、京都所司代板倉周防守と相談の上、幕府に直接請願するために江戸へ向かった。しかし、途中で病となり、寛永八年(一六三一)七月八日、桑名(城主は春松院の從兄弟である松平隱岐守[久松])において死去した。
 春松院の死後、寺領關係の朱印状等は、春松院の弟である松平玄蕃頭清昌が預っていたが、養林庵の後住として、佐治一久の女子である喝食 祖倫が立てられることとなり、寛永九年(一六三二)十月、寺領關係の朱印状等は、祖倫の後見人である永松院(祖倫の父方の祖母。佐治信方の女子。母は織田信長の妹「お犬」)に讓渡された。
 その後しばらく、養林庵の住持は、佐治家から入寺し、本寺たる寶鏡寺へ形式的に後住願を提出して認可される、という例となった。また、四代住月海祖澄は、寶鏡寺宮の命により綾小路家の猶子となり、以後、養林庵の住持は公卿の猶子となった。
 享保年間、養林庵後住の人事をめぐって養林庵と寶鏡寺との間に相論が起こり、寶鏡寺から養林庵五代如桂祖璋に退院命令が發された。これに反撥した養林庵は傳奏に訴え出、結局、武家方の後見を背景とした養林庵の主張が認められる院宣が發されるに至った。以後、養林庵の後住は、養林庵から先ず傳奏に屆出、次いで寶鏡寺の認可を得、更に京都寺社奉行に屆出ることとなった。
 七代大峯祖仙より以降は、代々の住持は、六條家の猶子となった。天明八年(一七八八)の大火によって燒亡。その再建のために、小出信濃守家中の出身である、曹洞宗の尼僧 寂宗觀光が養林庵に迎えられた。嘉永二年(一八四九)二月、觀光は十代養林庵住持となり、以後、養林庵は、實質上、曹洞宗に轉じた。
 明治十七年(一八八四)四月、養林庵は京都府知事に轉宗願を提出し、臨濟宗相國寺派寶鏡寺末を離れ、曹洞宗天寧寺末に名實共に轉じた。

【文獻等】
 ● 西口順子/佐藤文子「養林庵文書について −−由緒と沿革の紹介をかねて−−」(『相愛大学研究論集』第16巻(通巻第51巻)(二〇〇〇年三月)、五七(214)〜八九(182)頁


  


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更新日時 : 2003.01.13.
公開日時 : 2001.08.04.


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